スキャンダルを語る私たちへ──“感情”と“法”のあいだで

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また「炎上」が始まった

 またか。どうしていつも、こうなのか。

 永野芽郁と田中圭の報道に対し、特別な感情はない。どちらのファンでもないし、アンチでもなく、スキャンダルに一喜一憂できるほど”初(うぶ)”でもない。

 しかし、こうしてSNSのタイムラインに「不倫」「匂わせ」「略奪愛」「不買運動」が溢れかえる度に、どうしても問いたくなる。

 この滑稽な消費構図に我々は、どこまで関わり、どこまで無自覚なのか。

📺 なぜ「不買宣言」が起こるのか

 この手の報道が出るたびに、「もう○○の作品は見たくない」「CM契約解除すべき」というコメントが湧いて来る。その度に私は、ふと立ち止まる。

 いつから私たちは、出演者の”私生活”を消費の判断材料にするようになったのか。

 もちろん、CMや番組に起用される際はイメージも含めて選ばれているのだろう。けれど、それはあくまで制作側や起業の判断であって、視聴者が”制裁者”になる理由にはならない。

 好きな芸能人が自分の期待を裏切ったとき、がっかりする気持ちはわかる。

 しかしながら、「失望した」という感情のままに、「買わない」「見ない」と高らかに宣言し、それを公の場で主張しなければ気が済まない様子は、応援でも批判でもなく、自分の価値観を他者に押し付けている駄々っ子のようにしか見えない。

 永野芽郁に対し、特に風当たりが強く、声が大きくなるのは、彼女がこれまで多くの作品に出演し、明るく健やかなイメージとして目に触れる存在だったからだろう。

 露出の多さがそのまま、「裏切り」の材料になっているとはー。

 こうした報道全般にいえるが、芸能人本人より、我々の受け止め方に問題があるように思えて鳴らない。

⚖ 発信の自由と、その限界

 スキャンダルが報じられると、まるで公開処刑のように名前が拡散され、「あれは匂わせだった」「人として終わっている」などの断定的な言葉がそこかしこに並ぶ。

 けれど忘れないでほしいのは、我々が見ている情報がすべて真実とは限らないこと。

 いくらメディアが報じていたとはいえ、それは”事実とされている情報”でしかなく、切取り方により名誉毀損や業務妨害、侮辱等に該当する可能性がある。

 行政書士として思うのは、感情任せのSNS投稿や拡散が、法的なリスクを負うことがあるという点だ。

 「この人は終わった」と言い切り、私生活を断定的に語る投稿は、仮に相手が芸能人だろうと”表現の自由”の範囲を超えることがある。

🌙 言葉を残す前にできること

 誰かを批難したい気持ちが湧くときこそ、その言葉を世に発信し、残してもいいのかと立ち止まって考えてほしい。

 私たちは知らない誰かの「事実」を語るより、自分の「反応」を整えることでしか、この構図を変えることはできないのだから。

平成弐年式、やぎ座のO型。 ふだんは行政書士事務所の代表、根暗をやっています。

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