“女の子だから、なれない”でいいの?──敬宮愛子さまのご挨拶に、私が立ち止まった理由

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女の子だから天皇になれない

 それが制度として決まっていることは、知識として理解していました。

 しかし、今になりその言葉を目にして、思わず立ち止まりました。

 それは、敬宮愛子さまがご成年を迎えられた際のご挨拶を拝見して以降、私の中にひっかかっていた“ある違和感”とつながったからかもしれません。

「制度上の話」ではなかった

 あのとき拝見したご挨拶──ご本人の声で、まっすぐに語られる言葉。丁寧で落ち着いていて、それでいて、どこか内に静かな芯が通っているように感じました。

 私はその瞬間、はじめて“敬宮さま”という存在を「天皇陛下のご息女」でもなく「女性皇族」でもなく、“ひとりの人”として意識した気がしたのです。

 それまで、私はどこかで「制度の一部としての存在」としてしか捉えてこなかったのかもしれません。

語られ方に感じた“モヤ”

ご挨拶の映像をまだご覧になっていない方へ──
 敬宮さまが成年を迎えられた際の記者会見の模様を、以下の動画でご覧いただけます。

 その後、SNSなどで目にした反応の中に、こんな言葉がありました。

  • 「女の子だから、継げないのは仕方ない」
  • 「雅子さまに似ていて安心できる」
  • 「帝王教育を受けてきたから優秀に決まっている」

 いずれも悪意があるとは思いません。

 でも、そこにあるのは「個」ではなく、「背景」や「血統」による“ラベル”です。

 たしかに、親の影響や育ちの環境は、人をつくる一因でしょう。

 でも、それだけで語られてしまうと、その人がどんな思いで立っているかが見えなくなる。

 そしてそれは、皇室に限った話ではなく、私たちの身近にも、当たり前のように起きていることなのだと思います。

「通信制」「片親」「多産家庭」──私が言われてきたこと

 私はこれまで、「通信制高校しか出ていない」「片親で育った」「多産家庭だから育ちが悪そう」など、出自や環境だけで判断された経験が何度もあります。

 そして、実際にそういう目で見てくる人たちは、私が何を考え、何を積み上げ、どんな言葉を使っているかにはまったく興味がないようでした。

“見る目”は、誰かのためだけじゃなく、自分自身のためにある

 一時期、人事の仕事をしていたことがあります。

 だからこそ、背景や学歴が「参考情報」として用いられる場面があることは、よく理解しているつもりです。

 けれど、その“情報”が“評価のすべて”になってしまうと、その人の「今」や「これから」に光が当たらない。

 そしてその構造は、他人に向けられるだけでなく、自分自身の生き方すらも、見誤らせてしまう危うさを含んでいるように思うのです。

誰をどう見るか──それは、どう生きたいかとつながっている

 あのご挨拶を拝見したとき、敬宮さまは「評価されるため」ではなく、「言葉を尽くすこと」を選んでいるように感じました。

 それは、とても勇気のいることです。

 自分の姿勢や考え方を、背景も含めて、丁寧に外に差し出すこと。それを「誰かにどう見られるか」を超えてやるのは、簡単なことではありません。

 だからこそ、「この方を、私は“誰かの娘”としてではなく、“ひとりの人”として見たい

 そう思ったのだと思います。

最後にひとつ、問いを置かせてください

 あなたは今、誰かを「その人自身」として見ていますか?

 肩書きや育ち、過去の環境だけで、その人の“今”や“これから”を測っていませんか?

 そして、自分自身もまた、「何者か」で語られることで、本当の姿を隠してしまってはいないでしょうか。

 あのご挨拶は、私にとって、“見る目”をほんの少し整えるきっかけを与えてくれました。

 もし、あなたの中にも何かが残ったなら、それが“誰かを見る目”だけでなく、“自分を見る目”にもつながっていけば──そんなふうに願っています。

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📺 このテーマに関する動画は近日公開予定です。

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平成弐年式、やぎ座のO型。 ふだんは行政書士事務所の代表、根暗をやっています。

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