それでも発信を続けるということ―伝わらなさと呆れの向こうで

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 「やめてしまおうか」と思う瞬間がある。

 それは、何かひどい言葉を浴びせられたからというより、「誰にも届かなかった」と感じる時間の積み重ねに、心がすり減っていくからだ。

 発信をしていると、ときに予期しない反応に心を抉られることがある。それはまるで、ナイフで刺しただけでは飽き足らず、刃先をグリッと回すような残虐性を帯びていて―にもかかわらず、投稿者本人にはその自覚がないことが多い。

 それでも、自分の言葉を手放さない理由があるのだと信じた。

 けれど最近になり、その「理由」がよくわからない。

 今回は、①伝わらない苦しみ、②反応に対する複雑な心情、③心身の限界―この3つを正直に、構造として掘り下げる。

 これは責任転嫁や断罪の文章ではなく、私自身がなぜ、ここまで疲弊したのかを見失わずにいるためのきろくである。

①伝わらない苦しみ

 私は何も、わかってもらえないことが苦しいのではない。本当に苦しいのは、「伝えようとしているのに届いていない」ことだ。

 できるかぎり論理を重ね、言葉を整え、誤解の余地を減らす努力をしてきた。

 感情よりも構造を、感覚より順序を優先して発信することを、自ら選んで来た。

 これが私のスタイルであり、生存戦略の1つでもあった。

 けれどその上で、なお届かぬとき、「ではどうすればよかったのか」と自分自身に刃を向ける。

 私は自分の感情を預けすぎぬよう、情報として届けているつもりだ。

 その理由のひとつは、相手を尊重するため。

 自分を語りたいわけではないし、寄りかかるつもりはない。それなのに、向こうから”感情”の形でノックされる。

 解釈という名の押し付け。
 勝手な期待と落胆。
 「こういうことでしょ」と雑なラベル付け。

 そのすべてが私を”面白く解釈できるフリー素材”として消費してくる。

 質の低い反応に触れる度、「それはあなたの話だよね」と胸中でつぶやく。

 本当は、そういう人たちの背景まで見たくない。それでも、見えている自分がいる。

 おそらく「こういう経験があったのだろう」と察し、自分の投稿より、投稿に反応した人が抱える未処理の感情や、認識の歪みが見えている。

 見たくない。

 私の目は、そんなものを見るために開いているのではない。

 だが、それを遮断するにはあまりにも意識を研ぎすぎた。

 私が最も欲しているのは、共感でも、反響でもない。

 理解したがる意志に対する最低限のリスペクトだ。

 誤解は構わない。ただ、読み取ろうとしてくれる姿勢だけは見せてほしい。

②反応に対する複雑な心情

 発信を通し、反応が届く。これが嬉しいこともあれば、疲弊することもある。

 厄介なのは、そのどちらにも属さぬ半端な反応―

 「来ることはわかっていた」
 「内容も想像通り」
 「だから余計に、腹立たしい」

 そんな類いのコメントだ。

 投稿前、おそらくこうしたコメントが届くだろうとある程度の予測を立てる。

 これが的中した瞬間、どこかで「やっぱり」と思っている自分がいる。

 ここでの的中は、”予測能力で”ではなく”諦め”に近く、自分でも戸惑っている。

 本当は痛いのだろうが、もう痛みを認識する余裕もないのか、それとも、認識しないよう避けているのか、自分でもわからない。

 少なくとも、それに向ける感情はもはや”失望”でも”怒り”でもない。”処理”だ。

 しかしながら、無反応にも落ち込む。

 「もう誰の目にも止まらないのか」と不安になる。

 わたしは別に、否定されること自体が嫌なのではない。

 意見の相違は当然で、発信をしている以上、それを受け止める覚悟はある。

 でも、否定しながらその場に滞在している連中には、どうしても苛立ちが隠せない。

 気に入らないなら、他に行け。
 もっと適切なチャンネルがあるだろう。

 これは単なる買い言葉ではなく、視聴者自身が持っている”選択の自由”を思い出してほしいという願いに近い。

 どのチャンネルを選び、どんな言葉に触れるか、その選択権はいつだって視聴者にある。

 にもかかわらず、自分に合わないと叫びながら当チャンネルに居座り、文脈は無視。期待にそぐわぬ発信に野次を飛ばし続ける滑稽さを前に言葉を失う。

 それを選んでいるという事実に対し、自覚がない。なんて情けないんだろう。

 誰にでも開かれている場所であるからといって、誰にでも応えるべき義務を負うのか。そんなことはない。

③限界を知りながら、止まらない

 疲れが抜けない。眠っても、回復したという実感がない。

 目覚めた瞬間は気分が軽い。差し込む朝陽と、傍らで眠る小鳥たちを前に、今日も世界に会えたことを喜んでいる。

 だが、「今日は何をするか」と考えた瞬間、奈落の底へと転落する。

 まるで、満天の星空を見上げていた視線を水平に戻した途端、燃え盛る民家を背景に、返り血を浴びた殺人鬼に囲まれているような感覚。

 コメントやDMを見るのが嫌だ。にもかかわらず、怖いもの見たさで確認する。

 ”どうせろくでもないことが書かれている”という予測が先行し、それが的中することに奇妙な快感を覚えている。

 もはや、痛みと予測の的中がセットとなっている。

 快感とは言うが、それを味わっているのではない。単に、不快感を「予想通り」とすることで処理している。それだけだ。

 しかしそれでも、私は投稿する。「反応がある」と思いながら。

 たとえば、相続に関する動画を投稿するとき。

 「ここに突っ込まれるのだろう」と感じながらも、撮り直す気力はなかった。

 そのことへの後悔と、わかっていながら刺された自分に対し、落胆と怒りが入り交じる。

 専門家を名乗る以上、仕上がりには責任を持たなければならない。

 けれどその”プロ”という肩書きを持ち出された途端、本当は「お前の落ち度だ」と指をさされているような気持ちになる。

 実際にそんな責められ方はしていないのに、そこにある”語気の圧”に反応する。

 発信は義務ではない。私が好きでやっている。そのことに違いはない。

 だからこそ、傷付けられることに憤る。

 否定だけして居座る不法侵入者。
 アドバイス風の言葉を振りかざしながらも、自分の”納得”のためだけに発信者を消費する餓鬼。

 彼らが自らのニーズを把握できていない点には、呆れる。

 まるで、ペンギンを見たくて動物園に来たはずが、コンドルの檻の前に居座って文句を言い続けているようなものだ。

 ペンギンのように可愛らしいショーを見せぬコンドルに苛立ち、飛ばない理由を分析し、”自分なら飛ぶのに”と嘲笑して去って行く。

 気づいていないんでしょ?

 檻の前に立ち、見て、感じ、そこに留まっているという一連の行動が、すでに”選択”であることに。

エピローグ:それでも、ここにいる

 発信者であること、発信の内容に正解はない。

 ていねいに届けても、歪められる。
 無視しようにも、視界に割り込まれる。
 構えても空振りし、気を抜けば刺される。

 それでも今日も、画面の前に座っている。

 期待などとうに捨てた。まして、救われたいなどと思ってもいない。

 ただ、誰にも渡さずにいた言葉を、たしかに自分の手で扱いたい。

 届かなくていい。
 曲解、大歓迎。

 たしかに伝えたかったことが、ここにあった。

 もし、同じような痛みを抱えた誰かが、この言葉の残響に少しでも足を止めてくれるなら。

 その一瞬は、無意味ではない。

 これは誰のための発信でもない。

 ただ、自分に対する”応答”としての言葉だ。

 だから今日も、沈黙の海に小さな石をひとつ、投じてみる。

 音がなくても、波が立たずとも、それでいい。

はじめてのハンドドリップ。自宅で手軽に美味しいコーヒーを淹れるために必要な道具まとめ

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 自宅でのリモートワークや在宅時間が増える中、ハンドドリップで淹れるコーヒーに興味を持つ方が増えています。

 しかし、「何から揃えたら良いの?」「難しくない?」と感じている方も多いのではないでしょうか。

 この記事では、初心者が自宅で手軽に美味しいコーヒーを淹れるために必要な道具と選び方のポイントについて、実際に私が使用しているアイテムとあわせてご紹介します。

ハンドドリップに必要な基本ツール

1.コーヒーミル(豆を挽く道具)

👉HARIO セラミックコーヒーミル・スケルトン(MSCS-2B)

 初心者には、手動式のミルがオススメです。

 中でも「HARIO」は、耐熱ガラスで有名な日本メーカーで、初心者でも扱いやすい設計が魅力。

  • セラミック製の臼&ステンレス製金属部で丸洗いOK
  • 滑り止め付ガラス容器で安定感◎
  • 挽いた豆をそのまま保存できる蓋付仕様

👉商品ページを見る(こちら

2.ドリッパー&カラフェ(抽出道具)

👉KINTO ペーパーレス コーヒーカラフェセット

 スタイリッシュなデザインと機能性を両立したカラフェセット。

セット内容:

①コーヒーカラフェ(電子レンジ・食洗機対応)
②ステンレスフィルター(ペーパー不要)
③計量カップ兼ホルダー

  • ステンレスフィルターは”コーヒーオイル”をしっかり抽出
  • 中挽き~やや粗挽きの豆と相性◎
  • 気分に応じてペーパー使用もOK
  • コンパクト収納でキッチンもすっきり
コーヒーカラフェ
ステンレスフィルター
計量カップ兼ホルダー

👉商品ページを見る(こちら

3.ドリップポット(お湯を注ぐ道具)

 ドリップの味わいを左右するのは、”お湯の注ぎ方”です。

 電気ケトルから直接注ぐことも可能ですが、ドリップ専用ポットを使うと、湯量とスピードをコントロールしやすくなります。

ドリップ専用ポット
電気ケトル(T-fal Justice-Lock

👉選び方のポイント

  • 細口ノズルで調整しやすい構造
  • ステンレス・ホーロー・銅製など好みに応じて
  • お湯は電気ケトルで湧かし、移し替えるのが◎(温度を下げるため)

👉おすすめのドリップポットをチェック(こちら)

4.マグカップ(コーヒーを飲む道具)

 淹れ立てコーヒーは、保温性のあるカップで楽しむのがベターです。

NERVステンレスマグ、陶器マグ

👉おすすめ:ステンレスマグorガラスマグ

  • ステンレス製(二重構造)なら温度をキープしやすい
  • デザイン重視ならガラスや陶器も◎
エヴァンゲリオン ネルフ 二層ステンレスマグカップ
EVANGELION STORE オフィシャル版 NERVマグカップ/黒赤Ver.2

 私のお気に入りは、燕市製のステンレスマグと、エヴァンゲリオン公式のNERVデザインです。

👉NERVマグカップをチェック(こちら

まとめ ハンドドリップを始めるなら、まずは道具から

 ハンドドリップは特別な技術がなくても楽しめます。

 大切なのは「道具選び」からはじめること。

 この記事でご紹介したアイテムはすべて、初心者にも扱いやすいものばかりです。

 お気に入りの器具と出会い、あなたらしいコーヒータイムを始めてみてください。

初めての御朱印帳、どう選ぶ? 〜体験からわかった3つのポイント〜

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はじめての御朱印帳を手にして

 神社仏閣巡りをもっと楽しくしてくれる御朱印帳(ごしゅいんちょう)。

 近年では、SNS映えする可愛いデザインや限定御朱印のブームを受け、初心者でも気軽に始められる趣味として人気が高まっています。

 この記事では、実際に御朱印帳デビューを果たした筆者の経験を交えながら、はじめて御朱印帳を選ぶ際のポイントをわかりやすくご紹介します。

「どのサイズがいいの?」「どこで買えるの?」「ケースは必要?」など、購入前に気になる疑問もまとめて解決します。

📻音声で聴きたい方はこちら(Spotify配信中)

サイズの選び方:持ち歩くなら小サイズが〇

 御朱印帳の主なサイズは、以下の2種類です。

  • 大サイズ:約18.5×26.1cm(書き置きの御朱印に向いている)
  • 小サイズ:約18×12cm(その場で直接書いてもらうのに適している)

 筆者は初めてということもあり、小さめのサイズを選びました。

 理由は「バッグにスッと入るから」。長距離の惨敗でもかさばらず、持ち運びに便利です。

👉おすすめ:

※サイズや形式はショップにより異なるため、購入前に商品詳細を必ず確認しましょう。

形式の違い:初心者には蛇腹式がおすすめ

 御朱印帳の形式には主に、次の2種類があります。

  • 蛇腹(じゃばら)式:アコーディオン上に折りたたまれていて、左右どちらからでも開ける
  • ノート・バインダー式:ページごとに貼ったり、記録できる形式

 筆者は王道の蛇腹式を選びました。

 理由は、ほとんどの神社やお寺が蛇腹式に対応しているから。実際に使ってみると、少し気を抜いただけで全部のページが開いてしまう扱いにくさはありますが、それも慣れると味になります。

蛇腹式

👉ポイント:

デザイン:気に入ったものを選ぼう

 御朱印帳には本当にたくさんのデザインがあります。

  • かわいい動物柄や季節の花のモチーフ
  • シンプルで格式ある和柄
  • 神社寺院のオリジナルデザイン

 筆者は、うさぎと桜が描かれた藤色の御朱印帳を選びました(下図参照)。実物を手にした瞬間、「この帳面で記録を残していく」のだと実感が湧きました。

表紙(右開きを想定)

👉おすすめ:

御朱印帳はどこで買う?

 御朱印帳は、以下の場所にて購入することができます。

  • 神社・お寺の授与所
  • 書店・雑貨店
  • 通販(楽天市場、Amazonなど)

 ネット通販では口コミや写真で比較できる点が便利です。筆者も楽天で購入し、手元に届くまでもスムーズでした。

👉人気ショップ例:

ケース・カバーは必要?

 和紙姓の御朱印帳は、雨天や摩擦に弱いためカバーがあると安心です。

 実際に持ち歩くと、うっかり地面に落としたり、バッグの中で折れてしまうリスクもあります。

 筆者はカバー付きの御朱印帳を使用中です。

👉おすすめ:

  • 【撥水加工あり】御朱印帳専用カバー
  • 【透明タイプ】デザインを見せながら保護できる

まとめ:迷ったら「小サイズ×蛇腹×気に入ったデザイン」

 はじめて御朱印帳を選ぶなら、次の3点を軸に考えるのがオススメです。

  1. サイズは持ち運びやすい小サイズ
  2. 形式は対応範囲の広い蛇腹式
  3. デザインは自分がときめくものを

 御朱印帳は「参拝の思い出を形にするツール」です。一冊目だからこそ、自分にぴったりのものを選んで下さいね。

自己陶酔という病:恋愛ごっこに逃げ込む中年と、その共犯者たち

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 どこにでもいそうな顔で、どこにでもありそうな恋をする。

 しかし彼らはなぜか、”特別な愛”を演じたがる。

 既婚者の中年俳優と、世間から清純派とみなされていた若手女優。

 本気だと言いたげな眼差しで交わす言葉の裏に、本気でないことを互いに知っている空気が透けて見える。

 誰のものでもないと言いたげな眼差しを携え、互いに「自分だけは特別」だと信じたがっている。

 本当に大切に思っているのならなぜ、堂々と愛せないのか。
 なぜ家庭に帰り、なぜ彼女は待ち続けるフリができるのか。

 家庭もキャリアも失いたくはない。それでいて、誰かに求められる自分には酔っていたい。

 恋人の役を演じることでしか愛を感じられないふたり。

 それが叶わぬ現実に目を閉じ、耳を塞いで、”わたしたちだけの世界”で生きているフリをする。

 これは恋ではない。自己陶酔という病に冒されたふたりが、”恋をしている自分たち”というドラマに酔いしれているだけだ。

 この病の厄介なところは、その芝居に気づかず拍手を送る”共犯者”を生み出すことにある。

📻音声で聴きたい方はこちら(Spotify配信中)

この手の人間の特徴

 彼らは本気で「恋をしている」と思い込んでいる。

 しかし実際には、自分自身にとって都合の良い感情だけを選び取り、責任もリスクも取らず、”恋をしている気分”に浸るだけ。

 よく観察すると、次の共通項が見えてくる。

【特徴1】自分の”感情”を最優先

 愛している、辛い、会いたいーそういう感情だけを並べ、相手の立場や背景、傷付ける可能性を見ないし、考えない。

好きになっちゃったんだからしょうがないよね

それ、本当に相手を思ってらっしゃいます?

【特徴2】バレないことを前提に成立する恋愛

 バレるまでは純愛。バレたら”想定外”。

 つまり、逃げ道を確保したまま進む関係にしか踏み込めない。

 本当に大事なら、誰にも恥じず互いを守ることができる道を選ぶのではないか。

【特徴3】相手が”自分を肯定してくれる存在”であることが重要

 愛しているというより、「自分を必要としてくれる相手」との関係性に酔っている。

 恋人がほしいのではない。「恋人役をしてくれる人」がほしいだけ。

以上のことから、「恋」ではないことは明らかである。言うなれば、「甘え」と「自己愛」の循環でしかない。

分類と心理構造

 ”本気ヅラ人間”は、以下に大別することができる。

【タイプA】癒やし依存型ー「私がいないとダメなんだ」と思いたい

 このタイプは、誰かの弱さを見つけるとすぐに寄りかかる。

 それは支えることが目的なのではなく、”自分の存在価値”を実感するために他ならない。

 たとえば、最近不倫騒動が出た永野芽郁さんが演じるのはこのポジション。

 既婚者で、責任ある立場の男性に寄り添い、

彼が壊れないように支えているのは私

 だと信じ込もうとする。

 けれど実際には、自分が”選ばれし存在”であることを証明するステージに過ぎないにもかかわらず、本人はこれを『海よりも深い愛』と思い込んでいる。

【タイプB】承認型逃避人ー甘えながら責任は絶対に取らない男

 典型的な中年の逃避型はこれに属する。

 田中圭のように、仕事・家庭・立場という外圧の中で「良い人」を演じ疲れている存在は、その捌け口として、自分を肯定してくれる存在を求める。

 でも逃げたいだけで、何かを変える覚悟や行動はない。

 責任を取らなくて良い場所でだけ「本音」を語るふりをして、

俺も辛いんだよね

などとこぼし、理解されたい願望ばかりが前に出る。

 そのくせ、別れることも、離婚もできず、家庭を壊さない。ずっと”都合の良い場所”で被害者面をしていたいのが本音だろう。

 両者に共通するのは、「他人を使い、自分を満たす構造」にいること。

 愛ではない。必要とされたがっているだけ。

 しかもその必要性すら、自分の脳内だけで作られた幻であることが多い。

対処法:関わってしまったときの心得

 問題は、この手の”本気ヅラ人間”が優しい言葉や、弱っているふりをして近づいてきたときだ。

 最初は、「こんなに私のことを求めてくれる人、初めて…」といった錯覚すら抱かせるが、ちょっと待って。よく観察してほしい。

 彼らが求めているのは”あなた”ではない。”あなたがくれる安心感”だけだ。

 とはいえ、関わってしまっては仕方がない。

【対処1】話を聞いてあげない

 愚痴、言い訳、家庭の不満ー垂れ流される感情は、彼らの中では恋愛の前戯だ。

 聞くことで相手を理解できると思うのは幻想でしかなく、聞けば聞くほど、

この人は肯定してくれる

という誤解を加速させる。

で?あなたはどうしたいの?

 こう返した途端、彼らの口数は急激に減る。

【対処法2】かわいそうにーを武器にさせない

 弱っている人を突き放すには、罪悪感が伴う。

 それを知っているからこそ、彼らはしばしば”被害者ヅラ”をする。

 だがここで手を差し伸べると、「私はあなたに救われた」と安い台詞ばかりを吐き、ずるずると依存されるだけだ。

 大切なのは、「あなたの問題を私が背負う義理はない」と線を引くこと。この線こそ、相手の”演技”を無効化する武器になる。

【対処3】「で、どうするつもり?」

 彼らが最も嫌がるのは、”気持ち”ではなく”行動”を求められること。

  • 奥さんに話すつもりあるの?
  • いつ離婚するの?
  • 私たち、これからどうするの?

 こうした質問は彼らに、現実を突きつける鏡となる。所詮はごっこ遊び。鏡の前では成立しない。

”本気ヅラ人間”が最も嫌がること

 この手の人間は、責められるよりも、”自分が特別ではない”と気づかされることを何より恐れている。

 彼らの恋は、「誰にもわからない、ふたりだけの物語」でなければ成立せず、自分たちが”特別な関係”であるという前提が崩れた途端、一瞬で興味を失う、または自己陶酔が崩壊する。

 具体的には、以下の通りだ。

【嫌がらせ1】鏡を差し出す

あなたの台詞、他の人にも言ってない?

 その瞬間、「選ばれし自分」という幻想が崩れる。

 なぜならごっこ遊びは、他人と共有された時点で現実に引き戻されるからだ。

【嫌がらせ2】無関心の演出

アー、そういう人たまにいるよね

 同情も共感もせず、あくまで他人事で処理すること。これにより彼らが熱望する”特別な共犯関係”は崩壊する。

 彼らにとって最もキツいのは、怒られることでも嫌われることでもない。

 無視されることドラマから引きずり下ろされることだ。

【嫌がらせ3】役割を与えない

それって私じゃなくてよくない?

 相手を”恋人”として扱わない、”支えてくれる人”として持ち上げない。これに尽きる。

 ただの知人、ただの同僚、ただの通行人ー彼らが望む役割つきの関係を徹底して与えないこと。

 これにより彼らは、何者でもなくなることに堪えられず、静かにフェードアウトしていく。

 彼らは「愛されたい」のではなく「愛されている自分に酔いたい」だけ。その虚構を演出するには、あなたの共犯が不可欠である。

 しかしながら、あなたがその舞台から降りてしまえば、彼はひとり芝居しかできず、結果的に沈黙する。

おわりに:虚構に浸る人間が最も怖いのは

 恋をしているふり、苦しむふり、愛しているふりーふり、ふり、ふり。そのどれもが自分を傷付けない演出だ。

 彼らは傷付くことを怖れているのではない。

 ”大して特別じゃなかった”と気づくことを怖れている。

 自分は誰かに必要とされ、どこかで誰かにしか救えない愛がある。

 そう思い込んでいる限り、現実に向き合わなくていいのだから。

 けれどその演目は、いずれ終わりが来る。誰かが舞台から降りれば、簡単に幕は下りるのだから。

自己陶酔という病

 これは、恋ではない。断言する。単に、誰かを愛している”自分”に恋をしている。

 あなたの周りに、”本気じゃないのに、本気ヅラする大人”がいるとすれば、どうかその舞台の照明をそっと落としてあげてほしい。

 光の当たらぬ場所で、彼らの特別ごっこは続けられないから。

弱ってる人ばかり気遣われる構造に、ちょっとだけモノ申す

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 「○○さんは大変そうだから、そっとしておこうね」

 職場や地域、どこかの集まりで、そんな言葉を聞いたことはありませんか。

 疲れているように見える人、年齢が上の人、なんとなく”しんどそう”に見える人には、たいていの人が自然とやさしく接します。

 しかしーその言葉の裏で、実際にどれだけのことをやっていたのか、見られているのでしょうか。

 そして黙って、その人のぶんまで働いている誰かが、見落とされていないでしょうか。

 私はただ、「しんどそうな人ばかりが得する構造」が当然のようにそこにあると、時々どうしようもなくモヤモヤします。

大変そうな人に注がれる気遣い

 たとえば、明らかに業務をサボっている人がいる。

 責任は回避し、自分の仕事は他人に押し付けるのになぜか、周囲からは「大変でしょう」「無理しないでね」と気遣われている。

 一方で、黙々と働き、そのような人が抜けた穴を埋めている人がいたとしても、そちらには「しっかりしてるね」「頼りになるよ」と声を掛けるだけで終わる。

 誰かのしわ寄せを受けているにもかかわらず、”ケアの対象”にはならない。

 おかしいと思いませんか。

 苦労しているかどうかではなく、しんどそうに見えるかで評価や扱いが決まってしまう。そしてその「気遣い」は、見えるしんどさにばかり集中する。

 これは、偶然ではありません。

 むしろ、弱っているように振る舞うことが、無意識のうちに特権のように機能してしまう構造なのです。

包帯を巻き続ける人の心理

 本当は治っているにもかかわらず、いつまでも包帯を巻き続け、「まだ痛いです」と見せる人がいるます。このような行動は、意識的なものと、無意識なものがある。

 しかしどちらにも共通するのは、「弱っていることで得られるものがある」ということ。

 これは心理学でいう「二次的利得(セカンダリー・ゲイン)」に近いのではないでしょうか。

 つまり、病気や不調そのものではなく、その状態でいることで得られる”まわりの優しさ”や”免除”に価値を感じる構造をいいます。

 たとえば、

  • 「大変ですね」と声をかけてもらえる
  • 責任をもたなくて済む
  • 厳しい評価を避けられる
  • 周囲が忖度してくれる

 一度このポジションについてしまうと、そこから動きたくなる人もいます。

 なぜなら、彼らにとって”元気になること”はリスクになるのだから。

 元気になると、「じゃあちゃんとやっておいてね」「それはあなたの責任でしょ」と言われてしまいます。

 だから、「治った」とは言いませんし、包帯も外しません。

 こうして彼らは、自分を”保護される存在”としてキープし続けるのです。

やさしさが歪める構造

 もちろん、大変そうな人を気遣い、声をかけることには賛成です。人を思いやる気持ちがあるのは、とても素晴らしいことですから。

 けれどそのやさしさが、ろくに何も見ないで発動されたものだとしたらー。

 たとえば、高齢者世代の人たちが、何の悪気もなく発する「年下なんだから支えてあげなさい」という言葉。あるいは、「○○さんは疲れているんだから、あまり言わないほうがいいわよ」など。

 しかしその○○さんが、実はサボっていて常に責任転嫁。そのしわよせを食らっているのは、声を上げずに堪え、穴を埋め続けている誰かです。

 外形的にしんどそうな人だけがピックアップされ、気遣われ、そして気を遣った人たちはどこか良いことをした気になって。

 本当に守られるべきは、黙って耐え忍んでいるこの構図が不思議に思えてなりません。

 気遣いが見える弱さにのみ集まっている限り、構造は歪んだまま。やさしさは時に、それ自体が無責任な「逃げ」となるのです。

見落としてはいけない「静かにがんばる人」

 この記事でお伝えしたいのは、「しんどいアピールをする人がずるい」という単純な話ではありません。

 本当に弱っている人や、言葉にできない苦しみを抱えている人がいること。

 けれど、声の大きい”弱さ”ばかりに気を取られ、声を上げない”強さ”や”誠実さ”が見過ごされる状況について、やはりおかしいのではないかと思います。

 見えない部分で毎日責任を果たし、誰かの文まで背負い、それでも静かに働いている人がいます。

 そういう人にこそ目を向け、気づき、労ってあげてほしいと思います。

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使わないのに飾ってるのはなぜ? ― グッズを並べる私たちの静かな理由

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 「どうしてグッズを飾るの?」ーこう尋ねられたことはありませんか?

 買っただけで満足。開封することなく、箱のまま棚に並べる。

 人によってはそれを、「もったいない」「意味がわからない」と言うけれど、あなたは分かっているはず。

 飾ることにはきちんと意味があるのだと。

 この記事では、グッズを「使わず、飾るだけ」にとどめる我々ヲタクの行動について、その奥にある心理や感覚を掘り下げようと思います。

そこに“いる”だけで、安心する

 自宅に迎えたグッズを、棚やデスクの上に並べる。そこに特別な理由はないものの、なんとなく視界の中に置いておきたい。そう思うことはありませんか?

 たとえば疲れた日、目が合うわけでも、何かを話しかけてくれるわけでもありませんが、推しのアクリルスタンドを見るだけですこし、呼吸が楽になる。

 そんな感覚に心当たりがある人もいるかもしれません。

 それはきっと、そこにいてくれること自体が安らぎや安心につながっているからではないでしょうか。

 使わない。触れない。しかし、大切にしている。

 「ただ飾っているだけ」ーそう見えるその行為が実は、静かな感情の支えとなっていることがあります。

「使わないの?」にうまく答えられない理由

 「それ使わないの?」「開けちゃえばいいのに」

 未開封のグッズを棚に並べているのを見て、こんな風に聞かれた事がある人もいるかと思います。

 発言者の多くは、悪気があるわけではないのでしょう。

 けれどその度に、うまく言葉にできずもやっとした気持ちだけが残ります。

 なぜなら我々にとっては、”飾ること”が既にゴールですから。迎えた瞬間から、本来の使い方をせずとも役目は果たしています。

 その姿がそこにあること。それだけで十分なのです。使わない=大事にしない。そうではありません。

 この感覚を持たない人に対し、言語だけで説明するのは骨が折れます。でもわかる人にはよくわかる。

 たとえば神棚に手を合わせることや、自分のために花を生ける行為に似ているかもしれません。

 誰に見せるわけでもなく、自分が過ごす空間を整えることで、自分の心に静かな秩序を生み出す。

 飾るという行為は、何かを祈るでも、誰に見せるでもなく、”この場所にいてほしい”という願いを形にしたものではないでしょうか。

 それは、生け花が「活けられた瞬間」に完成するように、グッズもまた、飾ったときに我々の感情の一部になるのです。

飾ることでなにが満たされるのか

 グッズを飾るのは、満たされない気持ちの裏返しなのかも知れません。

 それは、目立ちたがりなわけででも、誰に見せびらかしたいわけでもない。

 むしろ誰にも邪魔されず、自分の感情を整えるための行動に近いものです。

 たとえば、整えたグッズ棚を前に深呼吸するとき、「あぁ、自分の空間に帰ってきた」とホッとする。

 それは、混乱した心の輪郭を取り戻すような感覚に似ていませんか。

 飾ることは、単に趣味やコレクションにとどまるものではありません。日々の中で自分を支える「静かな習慣」でもあるのです。

「それって変かな」の答えは、既に決まっている

 グッズを飾るだけなのに、「こんなことで満足する自分はどうなのか」と思うことがあるかもしれません。

 周囲に同じような人がいなかったり、誰かに言われた一言が気になったり。

 けれど、思い出してください。

 そのグッズはあなたに、安心をもたらしてくれるものだったはず。静かに寄り添い、支えてくれる存在だったはずです。

 「飾るだけ」といいますが、それは決して中途半端な愛し方ではありません。自分の心を守る方法のひとつなのです。

 だから、飾ることを辞める必要はありません。

 未開封でも、未使用でも、そこに”いてくれる”ことできちんと役目を果たしている。

 あなたがそうする理由は、きちんと意味がある。

 もしも誰かに聞かれたら、こう答えるといいでしょう。

 「これが私にとって、いちばん大事な形なのです」と。

信じるだけでは変われなかった。だから私は、制度を選んだ。

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「運気を整えれば、人生が変わる」
「感謝を習慣化すれば、奇跡が起きる」

 ―これらの”ポジティブなお言葉”が広く流通し始めた頃、私は少し離れた場所から観察していた。もちろん、それらの言葉に救われた人がいたことも知っている。

 こうしたメッセージは、受け手の心を一時的に軽くしたり、背中をふわりと推す効果もあるのだろう。

 けれど、そこで語られる”変換”の多くは、成果を自己申告する形で語られているのが引っかかる。

 実際にどのような状況で、どのような手順を踏み、何が起きたか。

 因果の筋道が示されることは稀少で、「なんとなく変わった」「奇跡が起きた」と曖昧な報告にとどまることがほとんどではなかろうか。

 たとえるなら、「この神社にお参りしてから恋人ができました」という話と酷似している。

 その参拝者に恋人ができた事実はあっても、それが本当に神社にお参りしたからなのか、その後の行動や環境の変化によるものなのかは検証されぬまま、「参拝=効果あり」と短絡的に信じられていく。

 そしてこの構造は、心の問題に限らず、仕事やお金、人間関係に至るまで、あらゆる”困りごと”に広がっていく。

 だが現実には、その裏で目に見えぬものを信じるだけでは変われなかった人たちの静かな絶望を生み続けていたように思う。

整える努力はしてきた。でも、動けなかった

 私自身、スピリチュアルな思考をまったく信じなかったわけではない。

 むしろ、書かれている通りに感謝を口にし(”ありがとう”を100万回)、手帳に願いごとを記し、”心を整える”というアプローチを真面目に続けた。

 気持ちが軽くなる瞬間はあったような気がする。

 いつもよりやや前向きに話せた日や、人との関係が穏やかに感じられる日もあった。

 けれど不思議なことに、現実はほとんど動かなかった。

 結局、整った心のまま動かない日々が続いた。想像の中でなりたい自分を思い描くほど、それとはかけ離れた現実とのギャップが浮き彫りとなり、苦しさを増す。

 今となって思うのは、気持ちを整えることと現実を動かすことは、別の技術だったということ。

 ”運”や”流れ”という言葉にすがるのは簡単だが、それで何か動いた気になってしまうのがいちばん怖かった。

願いを届けるには、ルートが必要だった

 さまざまな習慣を繰り返して実感したのは、どんなに前向きな言葉を使おうが、どんなに祈ろうが、その願いを社会に届ける手段がなければ、現実は動かないことだった。

 思いだけで変わる世界も、確かにある。

 けれど私がいたのはそういう場所じゃなかった。

 それはたとえば、住所も差出人も書かれていない手紙のようなものだ。いくら丁寧に綴られていようが、宛先がなければ意味はない。

 自分の気持ちを社会とつなぐには、届けるルートが必要だ。

 それは制度であり、手続きであり、書類だった。思い描いたことを現実に移すには、”整える”だけでは足りない。

 社会の言語で伝え、認めさせるための仕組みを、自分の手で選び取る必要があった。

 次第に私は、「整える」より「動かす」ことを選ぶようになった。このころから、現実を変えるための知識に視点は移った。

願いを整えるのではなく、届ける技術を学んだ

 私が制度や書類と向き合い始めたのは、より確率の高いルートだと気づいたからだ。

 誰かに願いを届けたければ、手続きが求められる。

 何かを始めるには、届出が求められる。

 守られたければ、ルールと証明が求められる。

 それはとても味気なく、感情を置き去りにしているように見えるかもしれない。

 けれど実際には、制度ほど人の想いに支えられているものはない。

 婚姻届や離婚届、遺言、そして契約書。これらすべてが誰かの意志を形にするためにある。

 だから私は、その言語を学ぶことにした。

 「心を整える」から、「心を翻訳する」へ―それが私の選んだ方向だった。

私は、制度という言語を話す側になった

 私は、行政書士という職業を選んだ。世間では”書類をつくる人”というイメージが強いだろうか。

 けれど私にとっては、”想いを具体化する翻訳者”という意味に近い。

 制度とはとても、無機質に見える。まるで鉄骨のような冷たさと武骨さを前に、為す術なく立ち尽くしたことだってある。

 だがその中には、「どうすれば人が守られるか」「どうすれば意志を届けられるか」という問いが詰まっている。

 手続きを知らないだけで、人生の選択肢を削ってしまう人がいる。制度にアクセスできないだけで、自分の願いを通せぬまま立ち止まる人がいる。

 私は、こういった”届かぬままでいる願い”に対し、少しでもルートを示したい。

信じることに疲れた人へ、もう一つのルートを

 当ページは、誰かの信じる気持ちを否定する目的で書いたわけではない。

 私自身、信じたいと思っていた時期があり、「信じるしかない」人の気持ちも少しはわかるつもりだ。

 けれど、信じるだけで届かなかった願いがある。整えただけでは動かなかった現実がある。

 私はそれを、何度も目にした。だからこそ、「願うこと」と「届けること」のあいだに、もうひとつのルートを示すような発信をしたい。

 当連載では、制度を語る。

 しかしそれは、書類の話をしたいからではない。

 言葉にならぬ願いが社会に届いていく過程を、少しずつ描くために書こうと思う。

 信じることに疲れた人にも、また信じたいと願っている人にも、何かひとつ届くものがあると嬉しい。

【平塚八幡宮】神奈川県平塚市の赤い鳥居と御朱印めぐり|境内レポ&アクセス情報も

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 神奈川県の国道1号線を通るたび、目に止まっていた朱色の鳥居。気になりながらも訪れる機会に恵まれず、気づけば10年以上が経過。

 しかしようやく、参拝することができました。

 この記事では、平塚八幡宮の御祭神・御利益・御朱印・アクセス情報に加え、実際に足を運んで感じたことを写真とともにお伝えします。

こんな方にオススメ

  • 平塚八幡宮ってどんな神社?
  • 御朱印の種類やもらえる場所は?
  • 行く価値があるかどうか知りたい!

「気になるけど、わざわざ行くほどでも…」という方も、この記事で全体像がつかめると思います。

平塚八幡宮とは?|相模國六社の一社

 神奈川県平塚市浅間町にある由緒ある神社で、国道1号線沿いの「朱い鳥居」が目印です。

 「相模國六社御朱印めぐり」のうちの一社とされ、奈良・平安期には国司が巡拝したと伝わる歴史ある神社です。

参拝した神社でいただいた資料をずらり

相模六社とは

称号神社名
一之宮寒川神社
二之宮川匂神社
三之宮比々多神社
四之宮前鳥神社
一国一社平塚八幡宮
総社六所神社

ご祭神と御利益

御祭神応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
武内宿禰命(たけのうちのすくね)
御利益商売繁盛
五穀豊穣
除災招福
交通安全
安産祈願 など

 とくに商売繁盛や家内安全の祈願で訪れる方が多い印象でした。

平塚八幡宮の御朱印|定番・限定・八社詣で

定番の御朱印

  • 鎮地大神
  • 平塚弁財天
  • 鶴峯山稲荷

※各初穂料:500円、直書き形式

限定御朱印

 菊まつり限定(2023年は初穂料1,000円、書き置きのみ)

平塚八幡宮 菊まつり限定の御朱印

境内八社詣

 境内にある8つのお社を巡ると、記念ポストカードが授与されます。初穂料は任意です。

境内八社詣

卯年限定デザインとのことで、来年からは新たなデザインになるのかも…?

アクセス・基本情報

住所:〒254-0041 神奈川県平塚市浅間町1-6
電話:0463(23)3315
公式サイト:平塚八幡宮

車でのアクセス

  • 圏央道「寒川南IC」経由
  • 無料駐車場あり(混雑時は周辺の有料駐車場を利用)

【関連リンク】駐車場のご案内|平塚八幡宮公式ページ

公共交通機関

 JR平塚駅北口👉神奈中バス「市役所前」下車 徒歩約3分(時刻表)

ご祈願受付

  • 平日:9:30~15:50

  • 土日祝:8:30~15:50

【参拝レポ】写真とともにめぐる境内

一の鳥居と狛犬たち

 平塚駅から徒歩10分、赤い大鳥居が迎えてくれます。

令和5年12月14日撮影

 狛犬はどこかユーモラスな表情で、青銅の鳥居前に控える個体とは印象が異なります。

 狛犬の違いを見るのも密かな楽しみです。

令和5年12月14日撮影
神社から見た平塚駅方面の風景
菊まつりの様子(令和5年11月16日撮影)
クリスマス飾りに(令和5年12月14日撮影)

鳥居をくぐると…

鳥居をくぐると、右手に鶴峯山稲荷社ある東御池、左手に弁財天社のある西御池が配置されています。

鯉やアヒル、鴨たちが優雅に泳いでいましたよ🦆

手水舎と聖堂の鳥居(二ノ鳥居)

 現在は柄杓を用いた清め方式ですが、年始は仮説の手水舎が設けられていました。

 二ノ鳥居には左右で異なる色味の狛犬が。これは難しい構成ではないでしょうか。

第一の鳥居側から
拝殿側から

拝殿とご神木

 拝殿前の茅の輪や、季節ごとの装飾が目を惹きます。

平塚八幡宮拝殿(令和5年11月16日撮影)

 菊まつりの時期は、境内が鮮やかな菊で彩られ、香りも華やかでした。

平塚八幡宮拝殿(御殿)

創建時は「鶴峯山八幡宮」と呼ばれていたとのこと。

平塚八幡宮拝殿/菊まつり
平塚八幡宮拝殿回廊と神明社

テント内には、茅の輪が設置されています。

その他 境内社

  • 神明社
  • 若宮社
  • 諏訪社
  • 浅間社
  • 道祖神
  • 太子堂

 時間の都合で拝殿のみの参拝となりましたが、次回はじっくり巡りたいところです。

平塚弁財天社と西御池

 西参道の鳥居をくぐると、弁財天社があらわれます。

西参道鳥居(外から)
西参道の鳥居(内から)
弁財天様のお社
控えめな手水舎が奥ゆかしい

 「湘南ひらつか七福神」の一柱でもあり、美容や芸能の神様とされています。

 奥には小さな手水舎と、スタンプ式の御朱印があります。

朱肉とスタンプが設置されている
菊まつりのため、あちこちに菊が飾られている

【おまけ】湘南クッキーの自販機

 西側の駐車場近くには、湘南クッキーの自販機が設置されています。

いきなり俗世感を醸し出してくるラインナップ
平衡が撮りづらい配置

はじめて見たときは驚きましたが、今ではお気に入りです。

 品揃えも豊富で、お土産にもぴったり。県外からいらした方は記念に是非。

平塚八幡宮まとめ

  • 国道沿いの大鳥居が印象的
  • 商売繁盛や除災招福など多彩な御利益
  • 季節限定御朱印や境内八社詣も魅力
  • アクセス良好&駐車場完備
  • 境内レポから”行った気になれる”記事に

 ちょっと気になっていた方は、この記事で疑似体験してみてくださいね。

スキャンダルを語る私たちへ──“感情”と“法”のあいだで

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また「炎上」が始まった

 またか。どうしていつも、こうなのか。

 永野芽郁と田中圭の報道に対し、特別な感情はない。どちらのファンでもないし、アンチでもなく、スキャンダルに一喜一憂できるほど”初(うぶ)”でもない。

 しかし、こうしてSNSのタイムラインに「不倫」「匂わせ」「略奪愛」「不買運動」が溢れかえる度に、どうしても問いたくなる。

 この滑稽な消費構図に我々は、どこまで関わり、どこまで無自覚なのか。

📺 なぜ「不買宣言」が起こるのか

 この手の報道が出るたびに、「もう○○の作品は見たくない」「CM契約解除すべき」というコメントが湧いて来る。その度に私は、ふと立ち止まる。

 いつから私たちは、出演者の”私生活”を消費の判断材料にするようになったのか。

 もちろん、CMや番組に起用される際はイメージも含めて選ばれているのだろう。けれど、それはあくまで制作側や起業の判断であって、視聴者が”制裁者”になる理由にはならない。

 好きな芸能人が自分の期待を裏切ったとき、がっかりする気持ちはわかる。

 しかしながら、「失望した」という感情のままに、「買わない」「見ない」と高らかに宣言し、それを公の場で主張しなければ気が済まない様子は、応援でも批判でもなく、自分の価値観を他者に押し付けている駄々っ子のようにしか見えない。

 永野芽郁に対し、特に風当たりが強く、声が大きくなるのは、彼女がこれまで多くの作品に出演し、明るく健やかなイメージとして目に触れる存在だったからだろう。

 露出の多さがそのまま、「裏切り」の材料になっているとはー。

 こうした報道全般にいえるが、芸能人本人より、我々の受け止め方に問題があるように思えて鳴らない。

⚖ 発信の自由と、その限界

 スキャンダルが報じられると、まるで公開処刑のように名前が拡散され、「あれは匂わせだった」「人として終わっている」などの断定的な言葉がそこかしこに並ぶ。

 けれど忘れないでほしいのは、我々が見ている情報がすべて真実とは限らないこと。

 いくらメディアが報じていたとはいえ、それは”事実とされている情報”でしかなく、切取り方により名誉毀損や業務妨害、侮辱等に該当する可能性がある。

 行政書士として思うのは、感情任せのSNS投稿や拡散が、法的なリスクを負うことがあるという点だ。

 「この人は終わった」と言い切り、私生活を断定的に語る投稿は、仮に相手が芸能人だろうと”表現の自由”の範囲を超えることがある。

🌙 言葉を残す前にできること

 誰かを批難したい気持ちが湧くときこそ、その言葉を世に発信し、残してもいいのかと立ち止まって考えてほしい。

 私たちは知らない誰かの「事実」を語るより、自分の「反応」を整えることでしか、この構図を変えることはできないのだから。

飴を噛む人の“性格傾向”をさらに掘り下げてみた件

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 前回の記事では、「飴を噛んでしまう人」と「最後までなめる人」との違いを心理学的な観点からご紹介しました(→ 飴を噛む人の心理と性格 はこちら)。今回はその続きです。

 当該記事を書いて依頼、「自分もつい噛んじゃう」という声を多数いただきました。それと同時に、ふとこんなことを考えたのです。

ーそもそも「噛む」って、ただのクセで片づけていいのだろうか。

 そこで今回は、もう一歩踏み込み、飴を噛むことの文化的背景や、日常行動との関連性、性格傾向の深層まで掘り下げます。

「噛んじゃダメ」と言われた時代

 まず思い出されるのは、あのフレーズ。

「飴は噛んじゃダメ」

 多くの人が子ども時代に、1度は言われたことがあるのではないでしょうか。

 これは、「品良く」「行儀よく」という価値観を反映させたものだったのかもしれません。

 その一方で、”大人になると誰にも何も言われない”ため、噛むことを自己流のクセとして定着させている人も多いようです。

 興味深いのは、「飴は噛まずになめるもの」という意識自体が、しつけや文化的な刷り込みに基づいている可能性があることです。

 特に昭和~平成初期の家庭では、「行儀が悪いから噛まない」ように教えられた経験を持つ人も少なくありません。

 つまり、飴をどう扱うかという行動には、育ってきた環境や習慣の影響が強く表れているものと考えられます。

【参考】仕事中の間食に関するアンケート調査(2014年)(ASMARQ)

飴を噛む人の日常あるある

 飴だけでなく、ちょっとした日常のクセにも共通項が見られます。

  • エレベーターの開閉ボタンを連打
  • レジで列の短いほうに並び直す
  • 電子レンジが0秒になる前に取り出す
  • 動画広告の「スキップ」を0.1秒でもはやく押したい

 ーいかがでしょうか。

 もし、「あるある!」と感じたあなたは、きっと即時行動タイプでしょう。

 こうしたクセについて、単なる落ち着きのなさで片づけるのではなく、効率やスピードを重視する行動特性として受け取ることもできます。

行動は「性格」そのものなのか

 では、こうした”噛み癖”や”早く終わらせたがる行動”は、そのまま「性格」といえるのでしょうか。

 結論から言うと、性格は環境と相互に影響し合うものでなり、一概に「行動=性格」とは言い難いです。

 たとえば、

  • 忙しい生活環境にいると「早く終わらせる癖」が身につく
  • 成果を求められる職場では、「決断のはやさ」が求められる
  • 反対に、ゆっくりな環境では「なめきる派」が育ちやすい

 つまり、飴を噛む=せっかちと言い切るのではなく、行動と環境の結果として表れているスタイルとして見るほうが適切だと思われます。

「噛む自分」にラベルを貼らなくていい

 飴を噛む人には、決断力や集中力、即応性など強みと呼べる特性があります。

 それを「短気」「せっかち」と否定的に捉えるのは、あまりにももったいないように思います。

 それどころか、

  • 自分は最短距離を好む
  • 噛むことでストレスを発散させているのかもしれない

 そんなふうに、自分を知る材料として扱ってほしいものです。

 そのうえで、「たまにはじっくりなめてみるか」と気まぐれに試すのもまた、何らかの気づきを得られるかもしれません。

🔗 関連記事・音声配信もどうぞ

 あなたの「噛む派・なめきる派」エピソードも、よかったら教えてください。きっと、他の誰かの参考になるはずです。