それでも発信を続けるということ―伝わらなさと呆れの向こうで

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 「やめてしまおうか」と思う瞬間がある。

 それは、何かひどい言葉を浴びせられたからというより、「誰にも届かなかった」と感じる時間の積み重ねに、心がすり減っていくからだ。

 発信をしていると、ときに予期しない反応に心を抉られることがある。それはまるで、ナイフで刺しただけでは飽き足らず、刃先をグリッと回すような残虐性を帯びていて―にもかかわらず、投稿者本人にはその自覚がないことが多い。

 それでも、自分の言葉を手放さない理由があるのだと信じた。

 けれど最近になり、その「理由」がよくわからない。

 今回は、①伝わらない苦しみ、②反応に対する複雑な心情、③心身の限界―この3つを正直に、構造として掘り下げる。

 これは責任転嫁や断罪の文章ではなく、私自身がなぜ、ここまで疲弊したのかを見失わずにいるためのきろくである。

①伝わらない苦しみ

 私は何も、わかってもらえないことが苦しいのではない。本当に苦しいのは、「伝えようとしているのに届いていない」ことだ。

 できるかぎり論理を重ね、言葉を整え、誤解の余地を減らす努力をしてきた。

 感情よりも構造を、感覚より順序を優先して発信することを、自ら選んで来た。

 これが私のスタイルであり、生存戦略の1つでもあった。

 けれどその上で、なお届かぬとき、「ではどうすればよかったのか」と自分自身に刃を向ける。

 私は自分の感情を預けすぎぬよう、情報として届けているつもりだ。

 その理由のひとつは、相手を尊重するため。

 自分を語りたいわけではないし、寄りかかるつもりはない。それなのに、向こうから”感情”の形でノックされる。

 解釈という名の押し付け。
 勝手な期待と落胆。
 「こういうことでしょ」と雑なラベル付け。

 そのすべてが私を”面白く解釈できるフリー素材”として消費してくる。

 質の低い反応に触れる度、「それはあなたの話だよね」と胸中でつぶやく。

 本当は、そういう人たちの背景まで見たくない。それでも、見えている自分がいる。

 おそらく「こういう経験があったのだろう」と察し、自分の投稿より、投稿に反応した人が抱える未処理の感情や、認識の歪みが見えている。

 見たくない。

 私の目は、そんなものを見るために開いているのではない。

 だが、それを遮断するにはあまりにも意識を研ぎすぎた。

 私が最も欲しているのは、共感でも、反響でもない。

 理解したがる意志に対する最低限のリスペクトだ。

 誤解は構わない。ただ、読み取ろうとしてくれる姿勢だけは見せてほしい。

②反応に対する複雑な心情

 発信を通し、反応が届く。これが嬉しいこともあれば、疲弊することもある。

 厄介なのは、そのどちらにも属さぬ半端な反応―

 「来ることはわかっていた」
 「内容も想像通り」
 「だから余計に、腹立たしい」

 そんな類いのコメントだ。

 投稿前、おそらくこうしたコメントが届くだろうとある程度の予測を立てる。

 これが的中した瞬間、どこかで「やっぱり」と思っている自分がいる。

 ここでの的中は、”予測能力で”ではなく”諦め”に近く、自分でも戸惑っている。

 本当は痛いのだろうが、もう痛みを認識する余裕もないのか、それとも、認識しないよう避けているのか、自分でもわからない。

 少なくとも、それに向ける感情はもはや”失望”でも”怒り”でもない。”処理”だ。

 しかしながら、無反応にも落ち込む。

 「もう誰の目にも止まらないのか」と不安になる。

 わたしは別に、否定されること自体が嫌なのではない。

 意見の相違は当然で、発信をしている以上、それを受け止める覚悟はある。

 でも、否定しながらその場に滞在している連中には、どうしても苛立ちが隠せない。

 気に入らないなら、他に行け。
 もっと適切なチャンネルがあるだろう。

 これは単なる買い言葉ではなく、視聴者自身が持っている”選択の自由”を思い出してほしいという願いに近い。

 どのチャンネルを選び、どんな言葉に触れるか、その選択権はいつだって視聴者にある。

 にもかかわらず、自分に合わないと叫びながら当チャンネルに居座り、文脈は無視。期待にそぐわぬ発信に野次を飛ばし続ける滑稽さを前に言葉を失う。

 それを選んでいるという事実に対し、自覚がない。なんて情けないんだろう。

 誰にでも開かれている場所であるからといって、誰にでも応えるべき義務を負うのか。そんなことはない。

③限界を知りながら、止まらない

 疲れが抜けない。眠っても、回復したという実感がない。

 目覚めた瞬間は気分が軽い。差し込む朝陽と、傍らで眠る小鳥たちを前に、今日も世界に会えたことを喜んでいる。

 だが、「今日は何をするか」と考えた瞬間、奈落の底へと転落する。

 まるで、満天の星空を見上げていた視線を水平に戻した途端、燃え盛る民家を背景に、返り血を浴びた殺人鬼に囲まれているような感覚。

 コメントやDMを見るのが嫌だ。にもかかわらず、怖いもの見たさで確認する。

 ”どうせろくでもないことが書かれている”という予測が先行し、それが的中することに奇妙な快感を覚えている。

 もはや、痛みと予測の的中がセットとなっている。

 快感とは言うが、それを味わっているのではない。単に、不快感を「予想通り」とすることで処理している。それだけだ。

 しかしそれでも、私は投稿する。「反応がある」と思いながら。

 たとえば、相続に関する動画を投稿するとき。

 「ここに突っ込まれるのだろう」と感じながらも、撮り直す気力はなかった。

 そのことへの後悔と、わかっていながら刺された自分に対し、落胆と怒りが入り交じる。

 専門家を名乗る以上、仕上がりには責任を持たなければならない。

 けれどその”プロ”という肩書きを持ち出された途端、本当は「お前の落ち度だ」と指をさされているような気持ちになる。

 実際にそんな責められ方はしていないのに、そこにある”語気の圧”に反応する。

 発信は義務ではない。私が好きでやっている。そのことに違いはない。

 だからこそ、傷付けられることに憤る。

 否定だけして居座る不法侵入者。
 アドバイス風の言葉を振りかざしながらも、自分の”納得”のためだけに発信者を消費する餓鬼。

 彼らが自らのニーズを把握できていない点には、呆れる。

 まるで、ペンギンを見たくて動物園に来たはずが、コンドルの檻の前に居座って文句を言い続けているようなものだ。

 ペンギンのように可愛らしいショーを見せぬコンドルに苛立ち、飛ばない理由を分析し、”自分なら飛ぶのに”と嘲笑して去って行く。

 気づいていないんでしょ?

 檻の前に立ち、見て、感じ、そこに留まっているという一連の行動が、すでに”選択”であることに。

エピローグ:それでも、ここにいる

 発信者であること、発信の内容に正解はない。

 ていねいに届けても、歪められる。
 無視しようにも、視界に割り込まれる。
 構えても空振りし、気を抜けば刺される。

 それでも今日も、画面の前に座っている。

 期待などとうに捨てた。まして、救われたいなどと思ってもいない。

 ただ、誰にも渡さずにいた言葉を、たしかに自分の手で扱いたい。

 届かなくていい。
 曲解、大歓迎。

 たしかに伝えたかったことが、ここにあった。

 もし、同じような痛みを抱えた誰かが、この言葉の残響に少しでも足を止めてくれるなら。

 その一瞬は、無意味ではない。

 これは誰のための発信でもない。

 ただ、自分に対する”応答”としての言葉だ。

 だから今日も、沈黙の海に小さな石をひとつ、投じてみる。

 音がなくても、波が立たずとも、それでいい。

平成弐年式、やぎ座のO型。 ふだんは行政書士事務所の代表、根暗をやっています。

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