無人区 Vol.4 | 春だけが訪れる場所

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花びらは、誰に見られなくても咲く

 歩道に貼りついた花びら一枚。灰色の車体に、そっと舞い降りた桃色の印。風が止まって、春だけが残っていた。

誰にも読まれない言葉が、風雨に晒されてまだ残っていた。
静けさに吸い込まれるように、一片の花びらがとどまった。

 廃墟になった道端に、落書きがひとつ。かつての警告は誰にも届かず、赤いスプレーの文字だけがいまもなお、誰かに訴えかけようとしていた。

記憶の上に、誰かの名前が重ねられていく。

 傾いた看板、朽ちた門、つたう蔦の緑は新しくても、構造物はもう、呼吸していない。

閉ざされた先にあるのは、もう役目を終えた空間。

けれど、ふと見上げると、桜は迷いなく咲いていた。

命と命をつなぐ線の上、咲いてしまった春。

電線の上に浮かぶ薄桃色の雲。鉄に絡む柔らかな命。

地面には、咲き終えた椿の花びら。けれど散ったあとも、そこには模様があり、色があり、誰かが見つけるまではきっとまだ、咲いているのだと思う。

誰にも見られずとも、花は精一杯に開こうとする。
散ったあとも、地上に模様を描き残す。

道ばたで見つけたテントウムシは、小さな花にしがみついていた。

小さな重力の中で、一匹の命がゆっくり進む。

季節は巡る。無人の場所にも、ちゃんと春は来る。

足跡のない道を、春だけが歩いていく。

それがこの地の、唯一の、変わらぬ約束。

無人区 vol.2 | 植物の楽屋

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植物の楽屋

 静かな温室のなか、今日も植物たちは出番を待つ。

 花を咲かせるもの、葉を広げるもの、少ししおれて、また持ち直すもの。表舞台のように飾られた花壇の外で、彼らは鉄骨の陰で、ホースのそばで、配管に寄り添って、静かに息をしている。

 むき出しのパイプ、錆びたネジ、網目状の足場。それらはどれも、植物を生かすための装置だ。

 だが、裏方のはずのそれらが、ふと主役のように見える瞬間がある。植物と構造物の距離はとても近くて、いつの間にか絡まり、もつれ合い、「どちらがどちらを支えているのか」そんな問いすら浮かぶ。

 管理された環境のなかで、制御されながらも自然のリズムを刻もうとする植物の姿は、どこか人間の暮らしにも似ている。決められたスペースに、与えられた道具に、限られた光と水に。それでも懸命に葉を広げ、どこかへ伸びようとする。

 舞台に立つ前の静けさ。光が差し込む前の、少しだけ緊張したような空気。

 この温室は、まさに植物たちの“楽屋”なのだ。

鉄骨の檻に咲く

鋼の構造に絡まりながらも、確かに咲く花々。管理と自由、支配と繁茂。その境界線が、ここでは曖昧になっていく。

光をすくう葉

人工の足場の隙間からこぼれる光を、葉は逃さず拾い上げる。命にとって、それが自然かどうかは関係ないのかもしれない。

窓の向こうの密やかさ

曇ったガラスの向こう側に、控えめに存在する緑。内部を守る装置の一部でさえ、どこか植物の一部のように見えてくる。

命を運ぶ管

ひっそりと地面に延びる配管。水を通し、根元へと命を届けるその姿は、まるで見えない脈動を支える血管のようだ。

ひとり咲く、楽屋の主役

葉陰に揺れる、ひと房の花。大勢の植物たちの中で、ひっそりとそれでも堂々と、ひとりだけ出番を迎えようとしている。

忙しさの名残

作業が止まったあとの静けさ。道具と鉢がそのまま残された棚の上には、育てる手の気配と、時の流れが滲んでいる。

赤と緑の交差点

育成途中の鉢たちの間に、色づいた花がひとつ。計画と偶然が重なって生まれた、その一瞬のバランス。

静止した手元

枯れかけた葉と転がった鉢。整えられたはずの空間に、わずかな「止まった時間」が残っている。楽屋裏のリアルな風景。

陽を浴びる待機列

鉢植えの群れが一列に並ぶ。その向こうにはネットの天井。温室の規律と光の加減を、すべて受け止める準備ができている。

おわりに

 舞台袖で光を待つ植物たち。その姿は、ふだん目にする「花の写真」とは少し違うかもしれない。けれど、こうした裏側の風景にも、たしかな美しさと命の気配が息づいている。

 このシリーズの一部は、写真素材としても公開しています。あなたの表現活動や仕事の中に、この静けさを添えられる場面があればぜひご覧ください。

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【スナップ】睡蓮と花菖蒲

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睡蓮とは

睡蓮は、スイレン科スイレン属(Ntmphaea属)の植物を指す。

花言葉は、「清純な心(purity of heart)」「信頼」「信仰」。開花時期は5月から10月である。

7月7日、7月24日の誕生花でもあります。

スイレンとハスの違い

ハスは、ハス科の植物ではあるが、スイレンと同じ「水生植物」に分類される。根菜の蓮根はハスの地下になるものである。

スイレンは水面に浮かぶよう花を咲かせるが、ハスは水面より高い位置に花を咲かせるほか、葉に撥水性がある点で異なります。

ハナショウブとは

ハナショウブ(花菖蒲、Iris ensata var. ensata)は、アヤメ科アヤメ属の多年草を指す。比較的 水はけの良い場所を好み、開花時期は6月頃。

ショウブと間違えられることも多いが、実は別の種で、端午の節句で「菖蒲湯」にするのはショウブの葉である。

ショウブの葉は刀に似ていること、茎葉から漂う芳香が邪気払いに最適な爽やかなものであることから、男子にとっての縁起物と考えられ、端午の節句に用いられるようになったと考えられています。

ハナショウブは「優しい心」「伝言」、ショウブは「適合」「勇気」と、花言葉もそれぞれ異なる。

そっくりさん同士

スイレンとハス、花菖蒲と菖蒲。そっくりさんを持つ者同士、開花期が近いため、同時に鑑賞してきた様子をお伝えします。

ハナショウブの良さが少し

このようなことを書くと「けしからん」と叱られるかも知れないが、筆者、ハナショウブに関心を持ったことはなかった。

理由は、花姿が気持ち悪い無機質なこと、カメラを迎える頃にはいつも、花びらの一部が萎れており、見頃とか、満開のタイミングが全くわからないから。

しかし、今期はじめて、藍染めのような色合いと反物のような質感が気に入り、少し、気に入った。

スイレンは淋しがり

筆者が栽培する睡蓮が咲いたため、もうそろそろだろうと出かけたスイレンの池。

思った通り、たくさんのスイレンが咲いていた。

花弁の儚さに比し、葉が力強いこと、開花時間があまり長くないことから、こうして開いている様子を見られただけで感無量である。

写真手前のビニールのようなものはゴミだろうか。

だとすれば、ひどく悲しい光景であるが、スイレンが咲いているところだけ、ほんのりとあかりが灯っているようだ。

肉眼で確認できない位置にある花も、水面に反射して見えるのが奥ゆかしい。

この池では、多くのスイレンが隣り合って咲いている様子が見られる。もちろん、おひとり様もいる。

このように寄り添って咲く睡蓮に視線を奪われるのは、生き物の絶対数が常に「1」だからだろう。

ひっそりと、しかし、しっかりとした息吹に心まで奪われてしまう。

他の動植物と同じように、スイレンにもたくさんの種類がある。

こちらは、淡い白色にほんのり色づくエッジが美しや。

そうかと思えば、こちらのスイレンは葉色がいぶし銀のようで渋いのに対し、花色は何とも可愛らしい。

同じ池にいるのに、皆すこしずつ顔色(葉・花色等)が異なるところが生き物らしくて良い。

ツヤのある葉の表面と、色とりどりの花姿が賑やかで眩しいひとときである。

開花している個体に混じり、大きな蕾が首をもたげている様子も見られる。

近くの花弁と、つぼみの先から除く花弁の色味が、これから顔を出すであろう花の色を思わせ、胸が躍る。

ポツポツと降り出した雨が、水面に波紋をつくる。

快晴も良いが、曇天のほうが花色がよく映えるように思う(カメラにとっては過酷極まりないだろう)

お日様のように燦々と輝くスイレンを最後に、この日は帰路についた。

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物言わぬ友人に会いに行った日

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先日、物言わぬ友人に会いに向かった。

筆者をご存知の方なら察しはつくだろう。筆者の友人とは、植物のことだ。

就職のために上京した筆者。

はじめこそ、地元の有人たちと頻繁に連絡をとっていたが、互いの日常から互いが消えたのはごく自然なことだと思う。

そのことを理解していても、さみしかったのだろう。

筆者はよく、公園や植物園、図書館を訪れた。

もちろん、カメラを片手に。

いま、自分の目の前に居る人は、必ずいなくなる。

早いか遅いかの違いしかない。

そして、それは植物も同じこと。

けれど、人に比べると長居してくれる。筆者の勝手だが、そう思う。

同じ場所に長居できる人もいれば、そうでない人もいる。

滞在時間が長ければ秀でているかと言えば、必ずしもそうでないところが、不確定な世界の面白さだ。

もし、筆者 または これらの被写体を思い出してくれることがあれば、たいへん光栄である。

あなたが誰かを思い出すように、相手もまた、あなたを思い出すだろう。

今を大切に、です。