占い師である私が、自分の事故を占った理由 ― タロットに問いかけた「真実」と「報い」

当サイトの一部に広告を含みます。

◆事故の背景と、私が占いを決意するまで

 2024年の夏。私は交通事故に遭いました。

 当時の状況については、既に公的な記録に残されており、ここでは詳細を控えますが、現在も左手に痺れが残っています。

▶症状固定のご報告(動画)
 私の状態については、先日YouTubeにて症状固定の報告動画を公開しました。より具体的な経緯や当時の気持ちについては、こちらでお話ししています。

🎥 症状固定を報告する動画(YouTube)

 事故の後、通院や書類対応を進めるなかで、説明のつかない場面がいくつかありました。
 ただあくまで、“違和感”でしかなく、確定的な根拠を持つものではありません。

 私は行政書士として、日々制度と向き合っています。そして、占い師としても、人の感情や目に見えぬ流れに触れてきました。

 本件では、自分が「被害者」という立場にあることを自覚しながらも、どこかで“感情の整理”がつかぬまま、月日が流れている感覚です。

 そこで私は、カードに問いかけました。

 これは、犯人を暴く鑑定ではありません。また、誰かを追及したり断罪するものでもありません。

 ただ、自分の中にある“引っかかり”の正体に名前をつけたくなったのです。

◆鑑定①:加害者の行く末 ― カードに問う、姿なき存在の未来

 事故当時、相手車両を運転していた人物について、いまだ明確な特定に至っていません。

 この件に関しては、制度上の手続に委ねており、今回はあくまで「名前も顔もわからぬ相手」の行く末を問いました。

 この行為にどれほどの意味があるのか。私自身、自問を繰り返しながら鑑定を進めました。感情を整理するために。

🃏引いたカードとその位置

ポジション意味
行動の因果崩壊、衝撃、突然の破綻
社会的責任公正な裁き、制度の是正
評価・周囲の反応復活の失敗、赦されない
内面の変化後悔、喪失、取り返しのつかない感情
最終的な帰結未完、報われない結末、閉じない物語

🕯解釈:逃げた人に完結はない

 めくったカードたちは、一時的に逃れられたように見えても、やがて何かが崩れ、失われていく構造を静かに語っていました。

 はじめに示されたのは、築き上げてきた基盤が唐突に崩れるような出来事。これは、本人の意図を超えた“崩壊”や“大きな代償”を象徴しています。

 次に感じ取れたのは、「バランスを正す力」の存在。
 制度や社会的な関わりの中で、帳尻が合わされるような場面が訪れることを示唆しています。

 それから、周囲からの信頼を取り戻すことが難しく、「赦されぬまま次に進む者」として、何かを置き去りにした人生になる可能性が高いとも。

 相手方の物語が“完結しない”感覚が、最後に重く残りました。

◆鑑定②:運行供用者の行く末 ― 責任の重みは、どこへ向かうのか

 今回の事故において、加害者の特定には至っていませんが、車両の運行供用者(使用者・管理者)は確認されています。

 ですので私は、法制度においてこの人物の立場を知っているのですが、人として本件とどう向き合っているかについては測れずにいます。

 この鑑定では、「加害者ではないが、責任の位置に置かれた人物」が、今後どう変化していくのかを尋ねました。

🕯解釈:自覚なき責任の、その先に

ポジション意味
現在の立場・心理責任の形骸化、コントロールの放棄
事故への向き合い方誤認、不安、真実に対する無意識の回避
今後の動き計画、選択肢、次の手を模索する
周囲からの評価亀裂、信頼の喪失
最終的な行く末転機、因果の巡り、運命の節目

 最初に出たのは、本来あるべき責任感や統率力がうまく機能していない状態を映し出すものでした。

 ですので、「自分のせいではない」「やるべきことはやった」というような、形式的、かつ、本件と意識的に距離をとったものと推察します。

 続いて浮かび上がったのは、物事の本質から目を背け、曖昧さの中にとどまろうとする感覚でした。誤解や不安、現実の重みに対し、いまだ向き合いきれていない様子がうかがえます。

 一方で、未来の兆しに「このままではいけない」という選択の気配も感じられます。
 行動を起こす、または何かを決断する転機が迫っているように見えました。

 対人関係においては「信頼の揺らぎ」や「すれ違い」が既に起きており、それら関係性の修復は困難な位置まで来ていることが読み取れます。

 最終的に示されたのは、必然の転換点、時間と因果の巡り合わせです。

 すぐに何が起こるというわけではないものの、あるべき時に、あるべき変化が訪れる。
 これにより、本人が何を見て、何を失い、何を選ぶのかは、その瞬間に試されることになるものと考えられます。

🌙問いを残す

 私はこの人物に対し、「不誠実」と決めつけるつもりはありません。

 しかしながら、事故後の対応から感じる温度差とズレに、引っかかりを覚えていることも事実です。それこそが、本鑑定の動機でもあります。

 鑑定結果から、「何も起きていないように見えるいま」が全てではないことを読みましたので、真偽はさておき、問いとしてこの記事に残します。

◆鑑定③:真相は明らかになるのか/報いは返るのか ― 因果という問いに、カードが答えるなら

 本件に関し、事実関係のすべてが明らかになっているわけではありません。この前提を踏まえ、どうしても気になる問いがあります。

 この事故の本当の姿は、いずれ明らかになるのか。

 そしてもし、関係者の中に意図して事実を歪めた存在がいるとすれば、その報いはどこかで返るのか。

 これらは加害者への処罰感情だけでなく、鑑定を通し”因果”に向き合って来たからこそ尋ねたい問いでもありました。

🔍真相は明らかになるか?

 曖昧さを排し、はっきりとした言葉や事実が提示されるカードが示されました。

 たとえ今は霧の中にあっても、然るべきタイミングで避けがたい事実が明るみに出る可能性が高い、と読むことができます。

 それは制度的なものなのか、それとも、偶然の結果なのかまではわかりませんが、いずれにせよ、真実を突きつける刃がもたらされるという強い暗示です。

🔍嘘をついているなら報いは返るのか?

 この問いに対し、「与えられるべき豊かさが失われていく」という答えが示されました。

 仮に誰かが事実を歪めているとすれば、その人物はやがて、人の情けや支えから遠ざかる可能性が高い。それは罰のように見えますが、「育まれぬ人生」としてじわじわ蝕まれていく。

 報いとは、何かを失うという形でやってくることもある―――そう語っているように見えました。

🌙まとめて問いを

 これらの問いについて、私は断定するために鑑定したわけではありません。
 単に、心にある引っかかりに形を与え、違和感を特定するために鑑定の力を借りたのです。

 ですので、本記事をご覧の皆さんが決めてください。どこまで信じるか。

◆結びにかえて ― 占いは真実を語るのか?

 ここまでご覧くださった方の中には、「占いでそんなことがわかるのか」と疑問を抱かれている方もいらっしゃるかもしれません。

 実際、鑑定を行った私自身も迷い、何度も疑いながら行いました。

 ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は行政書士であり、占い師でもあります。
 そして、本件においては事故の「被害者」でもあります。

 そのような私が占った結果ですので、客観性を欠く部分もあるかもしれません。

 けれど私は、どうしても知りたかったのです。

 「この違和感はどこから来ているのか」。
 そして、何を信じて生き直せばいいのだろうか――と。

🌙占いは、暴く道具ではなく、整えるための言葉

 占いは、真実を断定するものではありません。

 では何かといえば、“正解”を提示するのではなく、人が自分の心と向き合うための言葉の形を変えたものです。

 今回の鑑定についても、悪者を決めたいわけではありません。

 単に、起きたことに意味を与える言葉がほしかった。その言葉の輪郭を見つけるために、鑑定の力を借りただけなのです。

📖どこまで信じるかは、あなたが決めていい

 本記事を読み、信じられると感じる方もいれば、「所詮は占い」と思う方もいらっしゃるでしょう。どちらも正しいです。

 占いとは、信じるべきものではなく、使うものと考えています。

 ヒントになるなら使えば良いし、違和感があればそっと閉じれば良い。

 ただひとつだけ、この記事を通して伝えたかったことがあるとすれば──

「逃げた人にも、完結しない物語は残る」
「真実は、静かに、確かに、巡ってくる」

 私はそう信じ、生きていくつもりです。

 そして、この言葉が誰かの心に届いたとき、今回の鑑定が“意味のある問い”として成立するのかもしれません。

信じるだけでは変われなかった。だから私は、制度を選んだ。

当サイトの一部にアフィリエイト広告を含みます。

「運気を整えれば、人生が変わる」
「感謝を習慣化すれば、奇跡が起きる」

 ―これらの”ポジティブなお言葉”が広く流通し始めた頃、私は少し離れた場所から観察していた。もちろん、それらの言葉に救われた人がいたことも知っている。

 こうしたメッセージは、受け手の心を一時的に軽くしたり、背中をふわりと推す効果もあるのだろう。

 けれど、そこで語られる”変換”の多くは、成果を自己申告する形で語られているのが引っかかる。

 実際にどのような状況で、どのような手順を踏み、何が起きたか。

 因果の筋道が示されることは稀少で、「なんとなく変わった」「奇跡が起きた」と曖昧な報告にとどまることがほとんどではなかろうか。

 たとえるなら、「この神社にお参りしてから恋人ができました」という話と酷似している。

 その参拝者に恋人ができた事実はあっても、それが本当に神社にお参りしたからなのか、その後の行動や環境の変化によるものなのかは検証されぬまま、「参拝=効果あり」と短絡的に信じられていく。

 そしてこの構造は、心の問題に限らず、仕事やお金、人間関係に至るまで、あらゆる”困りごと”に広がっていく。

 だが現実には、その裏で目に見えぬものを信じるだけでは変われなかった人たちの静かな絶望を生み続けていたように思う。

整える努力はしてきた。でも、動けなかった

 私自身、スピリチュアルな思考をまったく信じなかったわけではない。

 むしろ、書かれている通りに感謝を口にし(”ありがとう”を100万回)、手帳に願いごとを記し、”心を整える”というアプローチを真面目に続けた。

 気持ちが軽くなる瞬間はあったような気がする。

 いつもよりやや前向きに話せた日や、人との関係が穏やかに感じられる日もあった。

 けれど不思議なことに、現実はほとんど動かなかった。

 結局、整った心のまま動かない日々が続いた。想像の中でなりたい自分を思い描くほど、それとはかけ離れた現実とのギャップが浮き彫りとなり、苦しさを増す。

 今となって思うのは、気持ちを整えることと現実を動かすことは、別の技術だったということ。

 ”運”や”流れ”という言葉にすがるのは簡単だが、それで何か動いた気になってしまうのがいちばん怖かった。

願いを届けるには、ルートが必要だった

 さまざまな習慣を繰り返して実感したのは、どんなに前向きな言葉を使おうが、どんなに祈ろうが、その願いを社会に届ける手段がなければ、現実は動かないことだった。

 思いだけで変わる世界も、確かにある。

 けれど私がいたのはそういう場所じゃなかった。

 それはたとえば、住所も差出人も書かれていない手紙のようなものだ。いくら丁寧に綴られていようが、宛先がなければ意味はない。

 自分の気持ちを社会とつなぐには、届けるルートが必要だ。

 それは制度であり、手続きであり、書類だった。思い描いたことを現実に移すには、”整える”だけでは足りない。

 社会の言語で伝え、認めさせるための仕組みを、自分の手で選び取る必要があった。

 次第に私は、「整える」より「動かす」ことを選ぶようになった。このころから、現実を変えるための知識に視点は移った。

願いを整えるのではなく、届ける技術を学んだ

 私が制度や書類と向き合い始めたのは、より確率の高いルートだと気づいたからだ。

 誰かに願いを届けたければ、手続きが求められる。

 何かを始めるには、届出が求められる。

 守られたければ、ルールと証明が求められる。

 それはとても味気なく、感情を置き去りにしているように見えるかもしれない。

 けれど実際には、制度ほど人の想いに支えられているものはない。

 婚姻届や離婚届、遺言、そして契約書。これらすべてが誰かの意志を形にするためにある。

 だから私は、その言語を学ぶことにした。

 「心を整える」から、「心を翻訳する」へ―それが私の選んだ方向だった。

私は、制度という言語を話す側になった

 私は、行政書士という職業を選んだ。世間では”書類をつくる人”というイメージが強いだろうか。

 けれど私にとっては、”想いを具体化する翻訳者”という意味に近い。

 制度とはとても、無機質に見える。まるで鉄骨のような冷たさと武骨さを前に、為す術なく立ち尽くしたことだってある。

 だがその中には、「どうすれば人が守られるか」「どうすれば意志を届けられるか」という問いが詰まっている。

 手続きを知らないだけで、人生の選択肢を削ってしまう人がいる。制度にアクセスできないだけで、自分の願いを通せぬまま立ち止まる人がいる。

 私は、こういった”届かぬままでいる願い”に対し、少しでもルートを示したい。

信じることに疲れた人へ、もう一つのルートを

 当ページは、誰かの信じる気持ちを否定する目的で書いたわけではない。

 私自身、信じたいと思っていた時期があり、「信じるしかない」人の気持ちも少しはわかるつもりだ。

 けれど、信じるだけで届かなかった願いがある。整えただけでは動かなかった現実がある。

 私はそれを、何度も目にした。だからこそ、「願うこと」と「届けること」のあいだに、もうひとつのルートを示すような発信をしたい。

 当連載では、制度を語る。

 しかしそれは、書類の話をしたいからではない。

 言葉にならぬ願いが社会に届いていく過程を、少しずつ描くために書こうと思う。

 信じることに疲れた人にも、また信じたいと願っている人にも、何かひとつ届くものがあると嬉しい。