【制度と感情の橋渡し vol.1】

当サイトの一部に広告を含みます。

相談した。でも、何もなかった。

──“制度”に拒まれたと感じたあの日のこと

 ペットショップで出会った小さな命に、私は「梅(うめ)」という名前をつけた。10年以上前のことだ。女の子で、少しおっとりした、毛並みの美しい子だった。

 購入の翌日には動物病院に連れて行き、検診も問題なし。定期的にワクチンを打ちながら、元気にすくすく育っていった。

 けれど何となく、“お腹が大きい気がする”という違和感が引っかかっていた。

 避妊手術のタイミングは、生後半年。梅もその時期を迎え、手術を受けることになった。

 そして──そこで初めて、腹水がたまっていることが分かった。

制度があるかどうかもわからない。でも、相談はした

 動揺した。費用のことも、何より彼女の健康のことも。

 正直に言えば、「ペットショップが無茶な繁殖をしたのでは…」との考えがよぎった。

 だが、返品なんて考えられない。

 ひとまず、補償──何か、制度的な救済措置があるのではとわずかな希望を抱き、購入先のペットショップに問い合わせた。

 結果は、見事に玉砕だった。

 「契約書に書いてあります」
 「健康診断は済ませており、問題はありませんでした」
 「ブリーダー情報はお出しできません」

 何一つ、“救おう”とする言葉は返ってこなかった。

 購入から数か月後に届いた血統書から、自力でブリーダーを特定して連絡を取った。

 やっと繋がった電話の向こう、相手は開口一番「うちには関係ない」。そして即座に、電話を切った。

行政も、制度も、なにもなかった

 病名がはっきりしたのは、さらに時間が経ってからだ。

 先天性の右心不全だった。

 原因が特定されるまでの間も、どんどん腹水がたまった。けれど、それを抜けば栄養も抜ける──そんなギリギリの状態を繰り返した。

 市役所や保健所、加入を検討していたペット保険会社等に問い合わせた。

 「何か救済制度はありませんか」

 答えは、すべて「ありません」だった。

「制度」とは、本当に“ある”と言えるのか

 この経験は、私の中で一つの問いを残した。

制度は、守るときには出てこないくせに、拒むときには限りなく”それらしい”顔をする。
それがどれほど人を追い詰めるか、制度を作った本人たちはご存じなのか。

 制度の有無以前に、我々が保護されない理由が次々と変わることこそが最大の問題だった。

 法律上、ペットは「モノ」だというわりに、PL法は適用されない。

 動物愛護を叫びながら、愛護の対象となるときだけ都合よく扱われている。

 動物の販売は合法なのに、購入後の問題については一切制度が絡んでいない。

 要するに、制度がないことではなく、制度の矛盾に翻弄されたことに怒りを感じていた。

制度を語るだけでは誰も救えない

 それから5年後、私は行政書士になった。そして思う。

 人は、制度の中にいない。
 人はいつも、制度の外側で立ち尽くす。

 だから私は、制度と感情の“橋”をかけたい。その橋を渡る人がいる限り、私は言葉を届けていきたい。

▶ 次回:制度にたどり着けなかった人へ──「質問できなかった、あの日の私へ」

📌 関連記事・動画リンク


✍️ 編集後記(optional)

 この話を公開することに、ずっと迷いがありました。

 しかし、同じように「何もなかった」と思ってしまった人に、せめて「ひとりじゃない」と伝えられたらと思って書いたものです。

信じるだけでは変われなかった。だから私は、制度を選んだ。

当サイトの一部にアフィリエイト広告を含みます。

「運気を整えれば、人生が変わる」
「感謝を習慣化すれば、奇跡が起きる」

 ―これらの”ポジティブなお言葉”が広く流通し始めた頃、私は少し離れた場所から観察していた。もちろん、それらの言葉に救われた人がいたことも知っている。

 こうしたメッセージは、受け手の心を一時的に軽くしたり、背中をふわりと推す効果もあるのだろう。

 けれど、そこで語られる”変換”の多くは、成果を自己申告する形で語られているのが引っかかる。

 実際にどのような状況で、どのような手順を踏み、何が起きたか。

 因果の筋道が示されることは稀少で、「なんとなく変わった」「奇跡が起きた」と曖昧な報告にとどまることがほとんどではなかろうか。

 たとえるなら、「この神社にお参りしてから恋人ができました」という話と酷似している。

 その参拝者に恋人ができた事実はあっても、それが本当に神社にお参りしたからなのか、その後の行動や環境の変化によるものなのかは検証されぬまま、「参拝=効果あり」と短絡的に信じられていく。

 そしてこの構造は、心の問題に限らず、仕事やお金、人間関係に至るまで、あらゆる”困りごと”に広がっていく。

 だが現実には、その裏で目に見えぬものを信じるだけでは変われなかった人たちの静かな絶望を生み続けていたように思う。

整える努力はしてきた。でも、動けなかった

 私自身、スピリチュアルな思考をまったく信じなかったわけではない。

 むしろ、書かれている通りに感謝を口にし(”ありがとう”を100万回)、手帳に願いごとを記し、”心を整える”というアプローチを真面目に続けた。

 気持ちが軽くなる瞬間はあったような気がする。

 いつもよりやや前向きに話せた日や、人との関係が穏やかに感じられる日もあった。

 けれど不思議なことに、現実はほとんど動かなかった。

 結局、整った心のまま動かない日々が続いた。想像の中でなりたい自分を思い描くほど、それとはかけ離れた現実とのギャップが浮き彫りとなり、苦しさを増す。

 今となって思うのは、気持ちを整えることと現実を動かすことは、別の技術だったということ。

 ”運”や”流れ”という言葉にすがるのは簡単だが、それで何か動いた気になってしまうのがいちばん怖かった。

願いを届けるには、ルートが必要だった

 さまざまな習慣を繰り返して実感したのは、どんなに前向きな言葉を使おうが、どんなに祈ろうが、その願いを社会に届ける手段がなければ、現実は動かないことだった。

 思いだけで変わる世界も、確かにある。

 けれど私がいたのはそういう場所じゃなかった。

 それはたとえば、住所も差出人も書かれていない手紙のようなものだ。いくら丁寧に綴られていようが、宛先がなければ意味はない。

 自分の気持ちを社会とつなぐには、届けるルートが必要だ。

 それは制度であり、手続きであり、書類だった。思い描いたことを現実に移すには、”整える”だけでは足りない。

 社会の言語で伝え、認めさせるための仕組みを、自分の手で選び取る必要があった。

 次第に私は、「整える」より「動かす」ことを選ぶようになった。このころから、現実を変えるための知識に視点は移った。

願いを整えるのではなく、届ける技術を学んだ

 私が制度や書類と向き合い始めたのは、より確率の高いルートだと気づいたからだ。

 誰かに願いを届けたければ、手続きが求められる。

 何かを始めるには、届出が求められる。

 守られたければ、ルールと証明が求められる。

 それはとても味気なく、感情を置き去りにしているように見えるかもしれない。

 けれど実際には、制度ほど人の想いに支えられているものはない。

 婚姻届や離婚届、遺言、そして契約書。これらすべてが誰かの意志を形にするためにある。

 だから私は、その言語を学ぶことにした。

 「心を整える」から、「心を翻訳する」へ―それが私の選んだ方向だった。

私は、制度という言語を話す側になった

 私は、行政書士という職業を選んだ。世間では”書類をつくる人”というイメージが強いだろうか。

 けれど私にとっては、”想いを具体化する翻訳者”という意味に近い。

 制度とはとても、無機質に見える。まるで鉄骨のような冷たさと武骨さを前に、為す術なく立ち尽くしたことだってある。

 だがその中には、「どうすれば人が守られるか」「どうすれば意志を届けられるか」という問いが詰まっている。

 手続きを知らないだけで、人生の選択肢を削ってしまう人がいる。制度にアクセスできないだけで、自分の願いを通せぬまま立ち止まる人がいる。

 私は、こういった”届かぬままでいる願い”に対し、少しでもルートを示したい。

信じることに疲れた人へ、もう一つのルートを

 当ページは、誰かの信じる気持ちを否定する目的で書いたわけではない。

 私自身、信じたいと思っていた時期があり、「信じるしかない」人の気持ちも少しはわかるつもりだ。

 けれど、信じるだけで届かなかった願いがある。整えただけでは動かなかった現実がある。

 私はそれを、何度も目にした。だからこそ、「願うこと」と「届けること」のあいだに、もうひとつのルートを示すような発信をしたい。

 当連載では、制度を語る。

 しかしそれは、書類の話をしたいからではない。

 言葉にならぬ願いが社会に届いていく過程を、少しずつ描くために書こうと思う。

 信じることに疲れた人にも、また信じたいと願っている人にも、何かひとつ届くものがあると嬉しい。